株式会社エコノミクス&ストラテジー

独占企業は顧客を識別すべきか:購入履歴に基づく価格差別の罠

参考論文

Villas-Boas, J. M. (2004). Price cycles in markets with customer recognition. The RAND Journal of Economics, 35(3), 486–501.

Hart, Oliver D., and Jean Tirole. “Contract Renegotiation and Coasian Dynamics.” The Review of Economic Studies, Vol. 55, No. 4 (Oct., 1988), pp. 509–540


はじめに

現代のマーケティング技術は進歩し、企業は顧客の購入履歴に基づいて価格設定できるようになりました。つまり、過去に購入したことのない人に対しては、低い価格を提示し顧客として取り込むと同時に、これまで購入した履歴のあるい人には高い価格を提示する、ということが可能になりました。一見すると、この価格差別は利益を大きくするように見えます。
しかし、この「顧客識別による価格差別」は、必ずしも企業にとって有利に働くとは限りません。
J. Miguel Villas-Boas(2004年)の研究は、独占企業が顧客を識別できるときに直面するリスクと利益低下作用を説明しています。重要なのは、顧客側も戦略的に購買活動をするという点です。

本稿では、この理論モデルをもとに、独占企業における顧客識別と価格設定の戦略について整理します。


顧客識別の戦略的インセンティブ

独占企業が顧客を識別できる場合、自然な戦略は次のようになります。

以下のようなモデルを考えます。企業は、2期にわたり商品を販売するとします。この商品は消費財で、消費者は1期に買っても、次の期に再び需要を持つとします。この時、1期目にある価格を付けて、2期目には以下のような価格差別を行うことが考えられます。

  • 1期目に購入した人に対しては、1期目に設定した価格以上の支払意思額を持っていることが分かっているので、2期目には高い価格を提示する
  • 新規顧客や1期目に購入しなかった人に対しては、支払意思額があまり高くないことが判明しているので低い価格を提示することで、顧客として取り込む

このように、購入履歴を利用して価格差別を行えば、企業はより多くの利潤を得られるように見えます。
しかし、ここに落とし穴が存在します。


ラチェット効果と消費者の戦略的行動

消費者もまた合理的に行動します。
1期目に購入すれば「私はこの商品を高く評価しています」という情報を企業に渡すことになる、と消費者は理解しています。それが企業に伝われば、2期目において高い価格を吹っ掛けられることが予想されます。
すると、高評価の消費者であっても、あえて購入を控えるという戦略的行動が生まれます。つまり、1期目に購入を控え、自分の支払意思額が低いことを企業に伝えることで、2期目には低価格が提示されるので、その時に買ったほうが得すると消費者は考えるのです。1期目に買ってしまうと、自分が商品に高い評価をしていることが企業にばれてしまい、2期目にも高い価格を設定されてしまうからです。このように、将来を先読みする行動を、ラチェット効果と呼びます。

このラチェット効果の存在により買い控えが発生し、企業は1期目において価格を十分下げないと売れなくなってしまい、利益が小さくなってしまうのです。 戦略的な消費者の先読みにより、高い価格を維持できなくなるのです。


顧客識別できない場合との比較

一方、顧客を識別できない(過去の購入履歴が使えない)場合、企業は全顧客に向けた単一価格を提示するしかありません。この時、将来一部の消費者に対して価格を下げることはない、と消費者に信じさせることができます。将来にわたり高い一律価格の維持をコミットすることができる、と言えるでしょう。その結果として、消費者の買い控えが発生しないため高い価格を維持できるのです。

つまり、消費者の購入履歴を識別できない方が、むしろ利潤が高くなることもある ということです。

さらに重要な点は、購入履歴に基づく価格差別を実際に行わないということのみならず、そのような価格差別が行われないと顧客にあらかじめ予想させておくことが、企業の利益になる場合があるということです。つまり消費者に、「もし今購入したら、購入しなかった人と比べて将来高い価格を付けられるのでは」と思われないようにすることが重要です。
顧客に対して、購入履歴による価格差別を行わないことを明示的に約束することが、企業の利益につながる可能性があるといえます。


まとめ

Villas-Boasの結論は明快です。

「独占企業は、顧客を識別できるからといって、必ずしも有利になるわけではない。」

むしろ、消費者の戦略的行動を引き起こし、価格戦略が不安定になり、利潤が低下するリスクを背負うことになります。

「購入履歴に基づく価格差別を行なわない」こと、そしてそれを消費者に伝えることで、将来一部の顧客への価格を下げないということをコミットメントでき、買い控えの発生を抑止することができます。

現代においても、顧客データに基づく個別対応がますます重要視されています。
しかしその裏には、企業が想定しない「戦略的な消費者の先読み」が潜んでいることを忘れてはなりません。

独占企業は、単なる技術的な顧客識別の可能性だけでなく、
その情報が市場に及ぼす動学的な影響まで考慮した価格戦略設計が必要です。

この記事は役に立ちましたか?

もし参考になりましたら、下記のボタンで教えてください。

関連記事

コメント

この記事へのコメントはありません。